この作品は、
小説家・倉橋燿子と娘・倉橋麻生が、
遺族に残された日記や書簡など
貴重な資料をひも解きながら、
実話をもとに描いた、
倉橋惣三の人生の物語です。

『倉橋惣三物語』

~上皇さまの教育係~

倉橋燿子/倉橋麻生 著(講談社)

舞台は、
東京下町・浅草から
本郷、中野へ――


激動の時代を歩んだ
ひとりの少年は、やがて
上皇陛下の教育係になった―。

“幼児教育の父”と呼ばれる、
教育者・倉橋惣三の伝記小説

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※一章まるごとためし読みができます。

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明治15年生まれ。昭和30年没。
日本幼児教育の先駆けとなった
東京女子高等師範学校附属幼稚園
(現・お茶の水女子大学付属幼稚園)
で主事を務める。
『婦人と子ども』(のちの『幼児の教育』
フレーベル館)三代目編集責任者、
『コドモノクニ』編集顧問を務め、
昭和23年には日本保育学会初代会長となる。
大人が意図するものを教える
教育を打ち破り、
子ども自身の自発性を引き出す
保育を提唱。

明治15年、後に“日本のフレーベル”、“近代幼児教育の父”と
呼ばれることになる、ひとりの男の子が静岡に誕生した。

大正・昭和に活躍した日本の児童心理学者で、昭和3~6年にわたり、
昭和天皇皇后両陛下にご進講を行い、その後皇太子殿下(現在の上皇陛下)
の幼少期に教育係をつとめた、教育者・倉橋惣三である。


引っ込み思案で、“カメ”だの“殿さまガエル”だのとからかわれた惣三は、
小学生のときに上京し、浅草の子どもたちとふれ合いながら、
子どもに興味をいだいていく。
中学時代には、雑誌『児童研究』を購読。
高校時代には、日本初の幼稚園「東京女子高等師範学校附属幼稚園
(現・お茶の水女子大学付属幼稚園)」に足しげく通い、子どもたちと遊んだ。
東京帝国大学卒業後、嘱託講師や教師を経て、お茶の水幼稚園主事(園長)を務め、
日本のかた苦しかった保育や幼児教育を次々と改革していった。


惣三の考えは、子どもが持つ「自らの内に育つ力」を大切にし、
子どもが自発的に自由に遊ぶ中で「自己充実」を目指すという教育方針。
周囲の大人が教え導くのは、その自己充実のために刺激を与え、
環境を構築すること――。


同時に、惣三は常に「子どもの友達」であろうとし、
息子との関係に悩む一人の親でもあった。


少年時代、運動が苦手で不器用なうえ、引っ込み思案だった惣三の心を
開いてくれた、下町の子供たち。
導いてくれた恩師や、夢を語り合った生涯の友。
さまざまな出会いにより作られていった、“近代幼児教育の父“と呼ばれた
倉橋惣三が、どのようなまなざしで子どもたちと向きあい、
父親として、何に悩んだのか――。


現在のコロナ禍を思わせるスペイン風邪の流行、関東大震災や
第二次世界大戦の敗戦……。
まさに激動の時代を生きた、人間・倉橋惣三の生涯を描いた伝記小説。


「信じて、待つ――」


倉橋惣三の基本の教育理念は、「子供は自ら育つ」ということです。
大切なのは、子どもの中に眠る可能性を信じ寄りそい待つこと。


幼児教育とは、人間の根っこを育てること。
しっかりした根っこが育っていなければ、きれいな花は咲くはずもない。


惣三はこの教育を実践しました。
常に、「子どもの友達」であろうとし、幼児教育の改革を次々行っていきました。


一方で、息子との関係に悩む一人の親でもあり、
それゆえに、子育ての悩みを抱える母親たちの悩みを聞き、寄りそい、
親である喜びと幸せを実践してほしいと、各地での講演に奔走しました。

倉橋惣三の言葉や行動は、幼児教育のみならず、「人間愛」にあふれています。
人間としての生き方がどうあるべきかを
常に考えつづけた倉橋惣三の思想は、幼児教育だけにとどまらず、
人間の生き方として、今の時代に求められていると思います。


ぜひ皆さんにも、『倉橋惣三物語』をとおして、
人生の可能性を開いていただければと願ってやみません。


倉橋燿子/倉橋麻生



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